わたしたちと東洋思想の出会い〜本分を見つける旅〜

車文宜と東洋思想

東洋思想と聞くと難しそう、理解できない、習得に時間がかかる、学ぶ量が膨大、などという声が聞こえてきそうです。それならまだしも、はむしろ嫌いでした。

私が東洋思想にハマったのはイギリスへの留学がきっかけでした。当時最先端とされる西洋式研究など素晴らしいものを探しに行ったのですが、実はそこで見聞きしたものは幼い頃から聞いたことがあるような事が多く、徐々に意識が東洋に返っていきました。そして、自分の中で東洋思想を嫌っていた原因は、単に勉強不足による誤解だったことに気づきました。西洋でも、自然法則を解読し三千年前に体系化された東洋の智慧は、物事の道理や本質を見抜く力、善悪を判断する力を与えてくれるものとして認知されています。

それからの私の世界観は、大きくこれまでと異なりました。まず長く迷うことはなくなり、解決案がすぐに見つかるのです。そして、これまでの違和感がどんどん整理され、嫌な人や事柄に悩まされなくなりました。

一方で皆さんの頭の中には疑問が出てきたかもしれません。つまりのところ、東洋思想て何なの?何が学習できて、どんなことを得ることができるの?たくさん解説はありますが、私の実践した体験から解説しようと思います。

  1. 東洋思想は、私に本分を見つける材料を提供してくれました。

  2. 東洋思想は、私に命の運び方と、到達に向けての近道と加速を教えてくれました。

  3. 東洋思想は、私に自身の幸せを定義し、真剣に取組むための長期のモチベーションを預けてくれました。

皆さんはアンパンマンのマーチを聞いたことがありますか?歌詞付きの歌を貼り付けておきます。大人になってから聞くとじんわりしてきます。

「なんのために生まれて なにをして生きるのか こたえられないなんて そんなのは いやだ!」つまりアンパンマンは本分のことをしっかり意識していて、その本分については「みんなの夢をまもるため」と繰り返し言ってます。

そして、「なにが 君の しあわせ なにをして よろこぶ わからないまま おわる そんなのはいやだ!」と幸せについても言及していて、「今を生きることで 熱いこころ 燃える」については、命の運び方つまりは生き方そのものです。「時は はやく すぎる 光る星は 消える」は私達の人生が短いものという忠告そのもので、弟子規にも書いてあります。

「そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ どんな敵が あいてでも」ここまで言われると、この敵は自身の悪い癖のことを指しているんじゃないのかなぁ〜と勝手に深読みしてしまいます。

弟子規研究所を通して、私は皆さんが必要最小限の学習を通して、最大限の効果を得られるよう、ここで発信をしていきます。

車文宜

手計仁志と東洋思想

私が初めて中国と関わりを持ったのは今から約30年前の高校修学旅行で、北京観光をしながら市内の姉妹校と交流授業をするプログラムでした。姉妹校というのがこれまた北京市内の超エリート校で、1on1交流相手のお父さんは国際線パイロット、お母さんは英語教師、自身は完全寮生活と、絵に描いたような富裕層でした。

一方で街の人々はみな茶色か灰色の人民服、街全体がモノトーン、自転車の台数と声の大きさはケタ違い、という感じでした。田舎者で世間知らずだった当時の私はこの格差に衝撃を受け「なんなんだこの国とこの人たちは?!」という好奇心から中国語や中国経済を学び始めました。

数年後、大学生になった私は、交流相手に再会するため、そして覚えた中国語の腕試しにと、再度北京に一人旅をすることになります。友人は相変わらず大学の寮生活で会えず、安宿を拠点に市内観光をする日々を送っていたある日、友人から電話がありました。曰く「カネもないだろうし実家の自分の部屋が空いてるから泊まれ」と。日本ではありえない至近距離のおもてなしに戸惑いましたが、ご好意をありがたく受け入れ、なんと私は友人不在のまま、ご両親や兄弟が住むご実家に2週間も居候することになったのです。

そこで私は初めて、家族の一員の友人(つまり私)もまた家族のように扱うこと、目の前の「機会」や「縁」を受け流さないことなど、中国人の濃厚な人間関係に触れることになります。その後、社会人になり中国関係のビジネスに長く携わることになるのですが、「なんなんだこの国とこの人たちは?!」という当時の好奇心は常に持ち続けていて、それが結局いまの東洋思想への関心や弟子規研究所の活動につながっている気がします。

あの時の恩返しをするつもりで、弟子規研究所を通して東洋の良き教えを発信し、皆さんがそれぞれ「自分の本分」を見つけるための応援をしていきたいと思います。

手計仁志

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