東洋思想から考えるジェンダー論③

このテーマは3回に分けて書いていて今回が最終回です。第2回で西洋では社会的性別(gender)と生物的性別(sex)を「分けて」捉えていることを紹介し、さらにはその歴史的背景や細分化について書きました。

最終回では、東洋ではなぜ社会的性別と生物的性別を「分けない」のか、さらに古来東洋の性別論では実は女性の方が偉大とされてきた!ということについて書きます。

東洋はなぜ、はっきり分けないのか?

そもそも東洋の「分けない」考え方は、紀元前8世紀ごろに書かれた『易経』の中心思想である陰陽の影響を大きく受けていると言えます。この図を皆さんも見たことがあるかもしれませんが、何を意味しているのでしょう?

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陰陽を表す「太極図」

まず白と黒は「相反するもの」を表しています。東洋でも「分けてる」じゃん!と言われそうですが、その分け方には以下のような特徴や陰陽の性質があります(諸説あり)。

①片方が先細ると逆の片方が拡がる(極論までいくと逆の性質になる)
②片方の中に逆の色の点が存在する(己の存在に逆の要素も含まれる)
③2つが揃って円満になる(己が成立するために逆の存在が欠かせない)
④直線ではなく曲線で仕切られている(互いの関係は常に変動する)

つまり陰陽は、2つの気の対立と統合を表し、宇宙の万物を作り、その変化の法則を説いています。白と黒を分けてみても、白は黒に影響を与えながら同時に黒からも影響を受け変化しています。そもそも黒という概念がないと白も成り立たないし、たとえ分けても片方だけでは存在できない。世の中のものごとは「常に相互作用していて、結局つながっている」ということをこの図は表しています。

例えばこの②の性質は人間にも見ることができます。男の子がママに似る、女の子がパパに似るというケースって身近でありませんか?これは男女が二極化を極めないように、お互いの要素を取り入れる自然界のプログラミングなのです。本当に良くできています。

このように東洋では社会的性別と生物的性別を分けないし、男と女でも違いはあれど相互に影響しあっているため、西洋のように白黒ハッキリ分けません。性別に限らず東洋思想はものごとの本質を「一体」と捉えます。

皆さんもぜひ、大自然の移り変わりに目を向けてみたり、二極化しているものの関係性に上記①~④の性質があるか観察してみてはいかがでしょうか。

「男尊女卑」は女が偉大?!

さて、東洋の男女性別論です。ここで、もはや完全に市民権を失った「男尊女卑」という言葉について、その元来の意味を紹介させてください。

この言葉も!元々は『易経』に出てくる「天尊地卑」という言葉に由来しています。天は男に、地は女に例えられました。卑には「みすぼらしい、とるに足りない、低い」と辞書にありますが、ここで最後の「低い」に由来して「謙虚、謙遜」という意味が当てはまります。下記に尊卑の正しい読み方とその意味を示します。

〇:天は尊(たか)く地は卑(ひく)し
✕:天は尊(とうと)く地は卑(いや)し

尊:尊敬、尊重、品格が高尚、正しい、真っ直ぐ
卑:謙虚、謙遜、寛容、安心、親切、差別しない

つまり「男は高い天のように真っ直ぐ正しく、女は低い大地のようにあらゆる生き物を育む」というのが古来の「男尊女卑」の意味だったんです。

陰陽において、女性は陰、男性は陽です。どちらがより偉大という考えはないのですが、始まりは陰です。男女においては、国を治めるため君子つまり男性に対する教育が目立ちますが、その男性が細胞のときから胎内教育をしているのが母親です。

東洋思想の文献を見ていくと、娘として、妻として、母として、嫁として、姑として、祖母としてなど役割ごとに教育本があります。このことから、女性は国を治める因をつくり、男性は国を治める果を収める関係だと分かります。

すべての動物や植物は豊かな大地で生まれ、育まれます。そして大地は「あの命は好きだけど、この命は嫌い」などと選り好みしません。女性には大地のようにいつも謙虚に万物を受け入れる大きな包容力と成長させる能力があるとされています。「母なる大地」は偉大なのです。

まとめ

1回目では西洋の「ジェンダー」と東洋の「性別」の違いを、2回目では西洋で女性の社会的立場が男性より低いという背景やその反発過程で生まれた新しい細分化を紹介しました。3回目は東洋においてものごとを「分けない」ことを陰陽から解説し、さらに男尊女卑の古来の意味と女性の偉大さにも触れました。

最近のジェンダー論について思うのは、このような前提の違いが炎上を引き起こしてるのでは?ということです。洋の東西でさまざまな考え方がありますが、古来より受け継がれてきた文化の上に、外から輸入された新しい概念をそう簡単に定着させることはできません。

相反するものを切り分けるのは、コミュニケーションにおいて何を指しているのかを明確にするためであり、優劣をつけるためではありません。みなコミュニティの中で生きいて、それぞれの役割があり、常に相互に助け合っています。天地がつながっているように、個々人も結局つながっているのだと考えます。

車文宜&手計仁志